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「私が動かされたもの」 石川久仁子

終演直後、足の裏から突き上げてくる強い力、からだ全体に伝わってくる熱い思い・・・・、 何とも形容しがたいエネルギーが満ちてきた。 出口におられた方に思わず口走っていた。 「素晴らしい時間をありがとう」と。 昨年12月3日「ほしのいえクリスマス・チャリティ・コンサート」での出来事である。 友人が行けなくなって、たまたま譲ってもらったチケットだった。 元レバノン大使天木直人氏の静かな語り口による講演、新谷のり子さんの語りと歌(銃声を歌にかえて)、お二人ともアメリカのイラク侵攻に対して、心の底から憤りと平和への思いを訴えていた。 そして、野宿者支援の方々から、それぞれのアピールが告げられた。 2か月余りが経って、この一枚のチケットは私にとって思いがけない世界を知る機会となった。 小さな思いが芽生え、私は今、火曜日クラスの一員として活動に参加している。 初めての日、夜回りを体験した。公園では80人位の方が待っていた。 ひとりの方が「母ちゃん」と声をかけてきた。 別の場所では「冷え切った体にあったかい味噌汁はありがたいよ」と。 あたたかいものが体を包む。このぬくもりが、私を次の行動につないでくれる。
炊き出しを体験して            嶋田絵里子
初めてほしのいえの炊き出しに参加した日はまだまだ寒さが残り、雨の降る3月下旬だった。 それから4ヶ月が経とうとしている。 変な“慣れ”が生じてきた今、初めて炊き出しを体験した時の事を思い起こしてみようと思う。 インターネットで多少山谷について調べてはいたものの、先ずは疑問だらけでのスタートだった。 野宿者達はなぜ路上にいなくてはいけないのか?仕事はしているのか?出来ないのか?したくないのか?どんな人達なのか?ボランティア側と当事者側との関係は?と言った具合に出したらきりがなかった。 私の炊き出し初体験は玉姫公園。 車で向かうと、たくさんのおじさん達がきれいに長蛇の列を作っている。 普段の生活ではお目にかかる事のない情景。 滑稽にさえ思えた。 内心はおっかなびっくりな私であったけれど・・・・。私はお味噌汁を担当した。 多くのおじさんが「ありがとう」の一言を伝えてきた事に驚く。そんな一言に衝撃を受けた。 「ありがとう」が「ありがとう」の意味を持って心の中に入ってくる。 “初めての体験”というのは、本当に驚きの連続だと思った。 でもそれは同時に、私の中にある偏見を浮き彫りにしたとも言える。 味噌汁を手渡す時、一人一人の表情を出来る限り見るよう心がけてみた。 風貌も表情も様々だった。 おじさん達の頭の中では何を考え、こうしてここにいるのだろう?どんな気持ちなの?と頭を過ぎる。 次には「いろは商店街」へ移動。ここは私に一種のカルチャーショックを与えた。 商店街の入口に立った時、立ち止まってしまいたくなるような威圧感に似たものを感じた・雨が余計にそう感じさせていたのかもしれない。 玉姫公園とは大分違った空気を感じた。 左右にたくさんいるおじさん達。その雰囲気に少しビクビクしている私。 けれど、先入観は捨てるようにし、ここでもおじさん達の事を出来る限り見るようにした。 やはり様々だった。 愛想の良いおじさん、酔っ払っているおじさん、数人のグループになっているおじさん、無表情なおじさん、うずくまったまま動かないおじさん・・・・。 何か話せる訳でもなく、私は物珍しい気分にさえなってしまっていたかもしれない。 ただ、そこで感じたものは以前アフリカへ行った時に得た感覚に似ていた。 それは「生きている」とは何か、本当に知っているとはそう感じずにはいられない場所だった。 「生きる」事を知っているように思えた。私自身「生きる」とは何か、本当に知っているとは思えない。 人間は裸の状態にされないと、「生きる」事を実感として認知するのは難しいかもしれない。 ここにいるおじさん達の方が余程人間らしい心を持っているようにさえ思えた。自分をかえりみずにはいられなくなる。 私の初めての炊き出しの体験は、「与えている」というより、「多くを与えられた」といった感覚に近い。 私はまだ、どんな問題が現実としてあるのか、その壁とは何か?を漠然とでしか理解していない。 ただ、私の中で以前と変化があるとしたら、実際に山谷を肌で感じたという事だ。 そして肌で感じない事には実感が湧かない問題であるという事。 ここで起きているこうした事実問題を世間はただ、正確に知らないだけなのだと思う。 野宿者へ対して起きる偏見も、この情報化社会が偏った方向へ進んでしまうという結果であり、そして個人の頭の中ではいくらでも身勝手な見解が膨らんでしまう事から排除されるのだと思う。 何よりも私自身がそうだった。 「支援者と当事者の平らな関係を目指している」と伺った。 共存社会。誰もが人権を持つべき社会。当たり前に一日を過ごしている中、一方では当たり前ではない一日を過ごしている人達がいるという事。 それを知った以上、そこに目を背けたくは無い。 堂々と、行動に起こす勇気を持ちたいと思う。